たまたま検索してヒットした記事なんですが、ちょっとこれはいかがなものかと思うところがありまして。
まあ、気持ちは分からないでもないですが。
交通事故の判例を見ていると、それなりに不可解なものはあります。
なぜそういう判決に至ったのか?というところについては、正確には双方が主張した準備書面などを見ないとわかりませんが、裁判所に行けば準備書面を閲覧することは可能とはいえ一般的ではありません。
判決文の中でも【双方の主張】という項目はあるのである程度はわかりますが。
Contents
交通事故の判例と不思議さ
あくまでも交通事故の後の民事訴訟、つまりは賠償請求の話です。
たまたまヒットした記事はこちらです。
古い記事ですし、そんなもんにツッコミを入れるのもアレなんですが。
こういうのってそう考えてしまう人がいるのかなといるのかなというところと、万が一裁判をせざるをえなかった上に弁護士を立てずに本人訴訟で争いたい人もいるかもしれないので、なぜこうなるのかというところを検討していきます。
これは何度も書いたことです。
交通事故の民事訴訟で損害賠償を争っている根拠は何でしょうか。
基本的には民法709条です。
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
交通事故の判例を見ると、道路交通法について争っているかのように誤解する面があります。
けど民法709条の過失というのは道路交通法の違反だけという規定が無い。
民法709条の過失を定義するとこうなります。
予見可能な結果について、結果回避義務の違反があったこと
なので道路交通法違反と必ずしもリンクしない面がある。
道交法違反がそのまま過失として認定されることもあるし、道交法の規定とはまた異なる面で予見性と回避義務から過失を認めるケースも多い。
分かりやすい例でいうと、こういうのでしょうか。
ここで挙げている事件は、一方通行道路を車が時速約50キロ、自転車が歩道上を時速約20キロで同一方向に進行。
自転車が合図もなく信号機が無い横断歩道を渡ったために起きた死亡事故です。
これを純粋に道路交通法だけでみると、こうなります。
車の違反 | 自転車の違反 |
歩行者がいないことが明らかとは言えない状況で徐行しなかった(38条)
|
合図もなく右折横断開始した(53条1項)
横断歩道での優先権はこの場合車にあるため、車道の正常な交通を妨害した(25条の2第1項) |
自転車横断帯が無い横断歩道なので、優先権は車にある。
この判例では25条の2なんて全くと言っていいほど考慮されていませんが、優先権がどうのこうのもあるとはいえ、横断歩道を乗ったまま渡る自転車なんてその辺に腐るほどいるという実態や、同一進行方向だったことなどをみれば自転車が横断する可能性は十分予見できたということが判示されているわけです。
民法での過失は、予見性と回避義務違反なので、道交法の規定通りに解釈されるとも限りません。
実態からみれば、目の前に自転車がいるんだから十分予見できるよね?というだけのこと。
この前提を抑えておかないと、恐らく物事の本質を見失うかと。
逆走自転車が遠くに見たときに、順走側が優先だと言ってそのまま進めば衝突する。
なので順走側にも一時停止などの事故回避義務が生じる。
衝突することが予見できるのに、回避しなかったということで過失になるわけで、道交法違反が無い=無過失とはならない点に注意。
かなり疑問に思うこと
裁判のシステムを誤認している点
冒頭で挙げた記事について。
本件では安全確認の不足を理由に歩行者に過失を認定していますが、
裁判官は自ら現場に足を運んだのでしょうか。私には、裁判官が法廷での言葉の綾に踊らされて、
頭の中だけで結論を出したように思えてなりません。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
民事訴訟の大原則ですが、弁論主義が採用されています。
弁論主義というのは、裁判の当事者がそれぞれの責任において証拠を提出して立証し、裁判官は提出された証拠と主張のみを判決の基礎にするというシステム。
裁判官が職権で、勝手に見に行って証拠収集することは出来ません。
一部、行政訴訟法などでは職権探知主義が認められている場合もありますが、民事訴訟法では裁判官が一人で事故現場に足を運んで確認し判決に加える、ということはダメなのです。
双方が提出した証拠以外を判決の基礎にすることは禁止されています。
この場合は民事なので、双方が証拠を提出して過失を立証する以外に方法はありません。
一部、原告と被告の立ち合いの下、裁判官が現地調査する仕組みもなくはないですが(進行協議期日とか検証とか)、通常、警察が作成した実況見分調書が信頼性が高いものとして証拠になるわけで、警察という第三者が作成し、加害者も被害者もそれにサインしているはずなのでそれ以上裁判官が現地調査する必要があるケースってよほど特殊な事案でない限り無いと思います。
実況見分調書は事故直後に作成されていて、裁判は事故が起きてからかなり日が経ってから起こされるわけですので、事故直後に作成された実況見分調書のほうが当時の状況を示しているわけですし。
進行協議期日とか検証というのは稀なケースなので、裁判官が必要だと認めない限りは行われませんし。
そういう例外的なことが必要と思わせるだけの何かがあれば別でしょうけど。
裁判官は法廷で提出された証拠や主張以外を判決に盛り込むことは出来ませんので、勝手に現地調査して判決に影響させることは法律上出来ないわけで、出来ないことを批判することにどのような意味があるのでしょう。
現地調査なんて認められないことを前提に、原告か被告が画像などを提示して現場の状況を分かりやすくするというなら話は分かりますが、見取り図なり画像なりは実況見分調書を証拠として出していると思いますよ、普通。
交通事故鑑定人に鑑定を依頼する方法もあるにはありますが、高額な鑑定費用を裁判所に予納することになる上に、負けたら自腹。
この手の事故にはそぐわない。
あくまでも原告が求めているのは、事故によって損害が出たものに対する損害賠償だということ。
言い方は悪いですが、慰謝料や治療費などを払ってくれるならそれで十分なわけですよ。
慰謝料や治療費を払ってもらうための主張や立証をするわけです。
裁判官が現場に見に行くことは無いので、それを前提にして証拠類を作成しないと不利になり得るし、不利になったとしてもそれは適切な証拠を出さなかった当事者の責任です。
ここ大切。
交通事故の判例を見ると、明らかに事実誤認していると思われる判例は多々あります。
3車線道路というだけで車両通行帯としている判例であったり、歩道上の普通自転車通行指定部分と思われるところを自転車道としているなど。
なぜこういうことが起こるのかというと、原告と被告、双方が車両通行帯だと認めているならそのまま認定されるからです。
双方が自転車道だと主張するなら、自転車道になります。
裁判の大原則として、当事者間で争いが無いことについてはそのまま認定することになる上に、裁判官が職権で独自調査する権限もない。
なので当事者が適切に主張しなかったというだけのことかと思いますが、それを裁判官のミスであるかのようにするのも違う。
ちょっとニュアンスは違いますが、こちらの判例。
この事件は刑事事件です。
原付が自転車道を通行したという事実で違反を取り、反則金を払っていないからだと思いますが略式起訴されて罰金刑で確定した事件。
これに対し、自転車道を通ったのではなくて普通自転車専用通行帯を通ったというのが真実なので、罪を取り消すための非常上告が成された事件です。
要は取り締まりをして警察官が自転車専用通行帯と自転車道の区別が付いていなくて、間違って自転車道を通行したという罪で取り締まってしまった。
それを受けて検察が起訴し、略式起訴で裁判官が有罪判決を出して罰金刑が確定していた。
裁判官は検察の起訴状の事実までは調査できない。
検察が自転車道を通行した罪として起訴しているし、被告人も略式起訴なので認めているのでそのまま判決を出したわけです。
これは刑事事件で略式なので若干意味合いが違いますが、基本的に民事訴訟では双方に争いが無いことはそのまま認定するしかない。
刑事訴訟って、警察が捜査して検察が証拠を整えて起訴するわけじゃないですか。
検察の起訴状や証拠を裁判官が検討するわけで、裁判官が捜査するわけではない。
民事も同じで、当事者が証拠を整えて裁判官はその証拠と主張が適正なのか判断するだけ。
裁判の原則は、双方が立証した事実について裁判官は書面審査をするのみ。
少なくとも事故の直後に再現実験を行なっていれば、
過失認定を左右する、こうした重要な事実は分かっていたはずです。しかし判決文を読むと、裁判官は法廷の中から出ずに
言葉の上での印象に踊らされ、恣意的な過失認定をした事が窺えます。安楽椅子探偵やってないで現場に行け!
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
一般的に民事で損害賠償請求が始まるのは、損害額が確定してからになります。
要は治療が終了しないと治療費の総額が確定しておらず、請求も出来ませんし。
再現実験をするとなると原告が自ら行うか、自腹で払って鑑定人に依頼するかという話になるでしょうけど、事故直後は裁判になるかどうかすら不明な状態、ですよね。
一般的には当事者同士(保険会社が入っているなら保険会社)で話し合って、交渉で納得いく回答が得られないから訴訟を提起する。
刑事事件ではないので、事故直後に示談交渉が決裂して裁判になることまで予見して再現実験をする、というのは無理があると思うんですが・・・
こういうのって、裁判所が再現実験するわけではない(権限もない)。
だいたいにして裁判所としても、当事者から訴状が提出されない限りどこにどんな争いがあることを知りませんし。
なので時間の流れを考えれば、事故直後に再現実験をすべきという考え方自体がまずおかしい。
裁判官は公平性を保つため、双方の主張と証拠のみを判断材料にするシステムです。
なので裁判官は法律に則って、法廷の中から出ることなく、双方の主張と提出された証拠のみを判断材料にするわけですが・・・
法廷に提出された訴状、答弁書、準備書面、証拠のみをみて、必要があれば証人尋問することもあるかもしれませんが、法廷の中だけで判断するのが裁判の仕組みなので、法律上できないことをやれというのはいかがなものなんでしょう。
訴訟提起が事故から早くても半年とか1年後であることを考えると、今更現地調査するよりも、事故直後に警察が作成した実況見分調書のほうが当時の状態を正確に表している可能性も高いわけですし、今更現地調査しても当時と同じかどうかすらわからない。
出来ない上に、無意味なことを求めているとしか思えず。
立証責任は当事者にある。
この原則が分かっていないような。
裁判官が勝手に調査して判決に加えると、一方に有利、一方に不利になる恐れが出てきます。
なので立証責任は当事者にあるというのが裁判なわけで、ここを批判する意味が分かりません。
あともう一つ。
提出した証拠が採用されるかどうかについては、裁判官の一存です。
自由心証主義ですので。
なので独自に再現実験をして証拠として提出したとしても、実験手法が疑わしいと裁判官が思えば採用されない。
裁判になるかどうかも分からない事故直後に、裁判になることまで予見してお金を掛けて再現実験して・・・それが証拠として重視されるかもわからないわけなので、批判するポイントが無茶苦茶だと思うんですが。
民事での立証責任は当事者にあるので、主張や証拠がお粗末だったり、適切ではない主張をすればおかしな判決が出ます。
時折おかしな判決をみかけますが、結局はそういうことで、ちゃんと主張しないと不利になるのは当たり前のこと。
立証不可能なことを鵜呑みにしている
引用されている判決文を見る限り、双方ともに一応は車道の状況、横断歩道の状況をそれぞれ確認したことになっています。
そもそもですが、本当に確認したのかについては客観的に立証することは出来ないので、このあたりは本人の主張となるわけです。
一応は過失割合、損害賠償を争っているわけですので、当事者が
こんな主張をするわけもないw
こんな主張をしたら当然不利になるので、実際がどうだったのかは不明ながらも【確認しました】と主張するものです。
なので【確認しました(自称)】の域を超えることは無い。
交通事故の当事者って、こういうのはあるあるです。
よくある右直事故についても、多い言い訳は【対向直進自転車を見落としていた】です。
これが本心なのか、実際はギリギリ行けると思ったけど事故ってしまったのか、本当はギリギリで通過してビビらせてやろうと思っていたのか、本人の心の中まで分かりません。
横断歩道違反で最も多いのは、恐らくは【歩行者の存在が見えなかった】とか【渡ろうとしているようには見えなかった】あたりだと思いますが、要は言い訳です。
当事者の主張が【確認はした】であるならば、そこの立証は出来ないので、裁判官も【確認はした。けどそれが十分だったのか?】という観点で検討するしかない。
この事故のポイントは、両者が共に安全確認をしながら、
衝突の瞬間まで相手の存在に全く気付いていないという点です。しかし、二人の人間が同時に認知エラーを起こすでしょうか。普通に考えれば、道路構造の側に重大な欠陥が有った事が疑われます。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
両者ともに真実を語ったかもしれないし、両者ともに嘘を語ったかもしれない。
もしくは片方が嘘を語ったかもしれないですが、どちらにせよ立証できない。
なので道路構造の欠陥を疑うのは早計だし、そもそも道路構造の欠陥について争うなら訴える相手を間違えている。
ずいぶん昔に、追い抜きざまに車に引っ掛けられたことがあります。
加害者(車)の運転手は警察の事情聴取に対し、
人間、パニックになると嘘を語り出す。
この件はそもそも、有力な目撃者と証拠があったので、加害者は警察からきつーくお説教タイムを頂いたそうです。
有力な目撃者というのは、警察官ですw
ちなみにこの加害者、一応は士業の資格を持つ方です。
刑事事件でもそうだし民事でもそうですが、立証しようがない本心については、不利なことは語りません。
当然、【確認した】と主張するわけなので、ここ自体はそれほど意味があるわけではない。
ここが一番気になりました。
本当に確認したかについては、立証しようがない。
なので絶対に確認していないだろと類推できる程度の証拠がない限りは、裁判官は確認したという前提で話を進めるしかない。
なので大して確認していない可能性を消すことも出来ず、事故当事者間での訴訟なのでその確認が十分だったのか?確認方法が適切だったのか?というところが争点になるしかないのです。
裁判は当事者主義、弁論主義なので当事者が主張していないことを裁判官が判決に加えることは出来ません。
道路構造の不備だと主張しても、裁判の当事者が道路管理者(行政)ではない以上、何ら意味がない主張にしかならない。
原告は被告の過失を追及するし、被告は原告の過失を主張し自らの過失を減じる主張をすることで攻撃防御する。
道路構造の不備を追求したとしても、攻撃防御にはならないので話に出ることはありません。
裁判の当事者ではない行政の過失を追及したところで、法廷にいない人の陰口程度にしかなりませんから。
そもそも原告と被告で争っているわけなので、第三者たる行政の責任を主張したら、責任逃れだと思われません?
有利に働く余地がない。
無理がある
第一に、自転車には道交法38条を学ぶ機会が提供されていません。
加えて、日本では大多数の自動車・バイクが日常的に38条違反をしており、
取り締まりも稀であるため、身近な例から学ぶ事もできません。第二に、仮に被告が38条を知っていたとしても、
本件事故現場の手前で減速するのは逆に危険です。この横断歩道は左カーブの途中に位置しており、
車道左端を通行する自転車は後続車から発見しにくく、
不用意に減速すれば車に追突されかねません。
(車は横断歩道手前で減速する習慣が無いのでなおさらです。)
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
この主張は無理があると思うのですが、原則として車両は、その視界に応じて安全な速度と方法で運転することが一般的な注意義務とされています。
車のロービームでの判例でもあったはずですが、例えば最高速度が50キロ制限になっている道路があったとして、常に50キロ出していいわけではなくて、ロービームであればその視界で安全が確保される速度で進行する義務がある。
道路交通法のことは関係なく、視界が不十分のままウェーイと全力で走行すれば、事故が起こる確率が上がるだろうということは一般的に想像できること。
停電で街灯が全て消えている状態では、歩行者ですら視界が効かないので慎重に歩く。
そんな中歩行者が全力疾走してみれば突っ立っているだけの歩行者にぶつかる可能性があることは普通の感覚で理解できるわけです。
民事で争っているのは道交法に限らず、予見性と回避義務ですから。
左カーブで街路樹があって視認性が悪いのであればそれに応じた速度が求められるのは、車だけではなく車両全般における一般的注意義務であって道交法の規定というわけでもありません(強いていうなら70条から導ける可能性もありますが、道交法違反を争っているわけではないので一般的注意義務で説明がつくこと)。
これは逆にいうと、歩行者も車道の交通が見えづらいのであれば同様の注意義務(道交法のではなくて民法)があると解釈される余地がありますが、一般的には38条の関係があるので歩行者には絶対的優先権があります。
38条がどうのこうのというよりも、見えづらい環境であればそれに応じた速度で進行するのは一般的注意義務なので、あまり意味を成さない主張なのではないでしょうか。
不用意に減速すれば追突されかねないというのは、後続車の車間距離の問題であって、何ら関係ありません。
それは単なる言い訳。
後続車が実際に車間距離を詰めていたとする証拠があるなら話は変わりますが、そうであっても事故回避義務が減失するわけでもありませんし。
こういう主張をするとむしろマイナスに働く恐れもありそうな。
こういうのって下手に38条は学ぶ機会が無いなどと主張すると、判決文にこんな感じで書かれるだけだと思います。
被告は道路交通法38条について、自転車運転者には学ぶ機会が無いことや、取り締まりが十分されていないことから必ずしも周知されていないものと主張する。
しかし横断歩道は、道路交通法を知っていなくても歩行者が横断する場所であることは一般的に周知されているものであって、歩行者が横断開始することは予見できるのであるから、歩行者を保護する義務があることは明らかである。
被告は道路交通法について主張するが、歩行者を保護するということは自転車運転者に課せられた一般的注意義務であるから、被告の主張は採用できない。
道交法がどうのこうのではなくて、小さいころから横断歩道は歩行者が渡る場所だと知っているよね?ということで一般的注意義務だとされるのがオチかと。。。
あと、自転車運転者が免許保有者だった場合はそもそも論理が破綻しています。
そもそも道交法だけを争っているのではないという前提と、自転車が一般的にどう扱われているかという実態なども加味して民法の過失に当たるかが判断されます。
減速すると後続車に衝突される【可能性】を主張するのは何ら意味がないというか、そんなもんが認められるならば全部可能性で言い訳が成り立ってしまう。
裁判で争っているのは、あくまでも現実に起こった事象についてなので、減速すると後続車に衝突される可能性があるなどと主張すると、歩行者がいても一時停止するつもりが無かったのではないか?と思われるだけでマイナスに働く恐れすらある。
徐行する気もなかったし、一時停止する気もなかったのでは?と思われる可能性があるのでこういう主張はすべきではない。
解釈に無理がある
ちょっと話がぶっ飛び過ぎていると思うのですが。
道交法制定に関わった国交省と警察庁や、
目の粗い取り締まりしかしていない
杉並警察の責任を追及すべきです。これも、
人を責めるな、仕組みを責めろ
の一例です。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
これらの過失について、裁判では道路管理者(おそらく杉並区)の
責任を全く追及しておらず、その代わりに
事故の当事者に重い過失認定を負わせています。2014年4月13日 追記
横断歩道の設置主体は杉並区ではなく荻窪警察署だそうです。当然、道路管理者には何の是正圧力も掛かりませんから、
事故発生から20年以上が経過した現在でも、
この危険な道路構造は放置されています。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (5)前回の続きで、 過失相殺シリーズ の5回目です。 今回は東京都杉並区の事故事例を取り上げます。
裁判の当事者は双方ともに事故当事者なので、道路構造が悪いとか警察が悪いなどと主張しても意味がありません。
原告は被告の過失を立証し、自分の過失を減じる主張をする。
被告はその逆で、原告の過失を立証し、自らの過失を減じる主張をする。
裁判は原告が被告に対して行うものなので、システムが悪いという訴えをしたいのであれば訴える相手を間違えています。
事故が起きた原因が行政にある、と主張して行政を訴えること自体は可能です。
ですが訴える相手が、事故の当事者から行政に変わってしまう。
原告は被告に対して損害賠償を払えと訴えているわけですが、被告が道路構造の瑕疵だとして行政を訴える・・・みたいなおかしな関係性になりそうですし、原告が被告と行政を訴えるというのもかなり難しいと思う。
国家賠償請求訴訟ですが、
② 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。
第二条 道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があつたために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責に任ずる。
道路の瑕疵って、【通常有すべき安全性を欠いていた状態】なので、こういうのは当てはまりません。
しかも条件として【違法に】です。
道路管理が杜撰で側溝のふたが空いているのを放置したとか、大きな陥没があったとかなら別ですが、普通に考えれば夜間の見えづらい左カーブであれば、見えていないことを前提にした速度で進行することが当たり前の注意義務になるので、行政の責任を問うというのは無理があり過ぎる。
国賠で道路の構造物の責任を問うた場合、事故当事者間での責任を問えなくなる可能性もあるのでちょっと無理があると思います。
法に反した道路を作ったとか、穴が開いているのに放置したとかなら話は変わるかもしれませんが、道路の瑕疵や公務員の過失を証明しないと認められるわけもないので、無駄に争った結果被害者には十分な賠償が行われず泣き寝入りするだけにしかならないと思うのですが。
こういうのって、事故当事者間で賠償請求を確定させた後、道路構造に不備があると思うのであればそれは別に行政に提案レベルで話を持っていくべきこと。
対決姿勢を煽っても特にメリットが無い上に、敗訴した場合は行政側に何ら責任が無いというお墨付きを与えることになるので、安易にすべきではないと思う。
道路構造について明確な瑕疵が無いのであれば、それは司法で解決する問題ではない。
当たり前のこととして、行政が被告になっていない事件で行政の責任だとする判決が出ることはありません。
適正な反論機会も与えられていないまま行政の過失だとする判決が出ると、もはや民主主義の崩壊ですから。
けどまあ、街路樹で見えづらいという環境があったとしたら、その環境に応じた通行の仕方をするというのが一般的な注意義務なわけで、事故の法的責任を道路構造のせいに持っていこうとする考え方は正直理解不能。
同種事故がこの場所で頻発しているなら、この方の調査通りに構造の問題と言える余地はあるかもしれませんが、同種事故がもしほとんど起きていなかった場合には、この方の調査とは異なり、殆どの人はきちんと視認できているという裏付けにもなってしまう。
こういうのって道路構造の瑕疵を追及するのであれば、例えばですが同種事故がこの場所で、1年間で20件も起きているとかそういう事情があれば別ですが、事故多発ポイントであればとっくに行政が改良している。
けど仮に、この場所で同種事故は10年間で1件だけですとなると、一般的に考えて事故当事者間での過失とみなすほうが適切。
ほかのみんなはちゃんと確認できているのに、あなた方だけですよ?という話になっちゃう。
見えづらいという主観だけで責任を負わすことは出来ないので、見えづらいことが事故多発に繋がっているとする客観的なデータが無いと誰も信用しません。
国賠訴訟をすると、行政側からはこういう反論が普通に出ると思います。
事故頻発であるなら道路の瑕疵と言える余地はあっても、そうではないなら単なる事故当事者間での問題だよねという合理性がある。
道路の瑕疵を争った事件でもそうですが、
判決理由の一つとして、同種事故が起きていないことも理由としています。
排水溝がある場所は継続的な通行が可能な場所とは解せない上に、危険な場所を避けるのは注意義務でしょ?という形になっている。
けどこれ、判決が出る前だと思いますが、事故防止のためなのか行政は危険予告の標識を立てたり、自主的に排水溝を変更しています。
事故の責任とまではいかなくても、事故を防ぐには改良したほうがいいよね?という意味だと思いますが、事故の責任は運転者の注意不足であって行政の責任ではないけど、注意できずに事故を起こす人がいた以上は直しましょうという意味なんじゃないですかね。
事故の賠償責任と、道路構造がごっちゃになって追求しようとしているようにしか見えなくて。
事故によって失った権利や利益に対する法的責任と、事故を予防するための道義的責任がごっちゃになっているというのかな。
行政の責務として道路整備をするなど事故が起こりにくい構造を作ろうとする道義的な責任はあっても、事故が起きた原因は当事者に帰する。
これは当たり前のことだと思うのですが・・・
ちょっと気になって道路の瑕疵についての判例も見てみましたが、似たような事案すら見つかりません。
強いて言うなら、これが多少参考になるかも。
本件事故の発生の原因が原告の道路交通法違反の通行方法という道路交通法無視の態度にある以上、本件事故の発生と本件中央分離帯に視線誘導線の設置がなかったこととの間には何らの因果関係もなかったことになる。その意味でこのような原告自身の責任による損害を、本件道路の設置又は管理の瑕疵を主張して、市民の税金がその支払原資となる国家賠償に転嫁するような本件請求は、到底認めることができない。
福岡高裁 平成18年6月18日
横断歩道で横断歩行者がいないことが明らかではない限り徐行義務がある(38条)ので違反が自転車にあった、という前提に立つと、道交法違反があるから事故が起きたと見なせるわけで、結局はきちんと横断歩道の確認をしていれば事故は起きていない。
免許制ではない自転車に対しても法律上はこの義務を課しているわけなので、上の判例の立場に立てば、違反があったことが事故の原因なのにも関わらず、国家賠償請求することは許されるものではないとしている判例です。
なお判例は、交差点で右折する際に中央分離帯に乗り上げたというもののようですが、国家賠償請求しているのは、右折に際する視線誘導線がないことが道路の瑕疵に当たると主張しているもの。
この事故であった車の違反は、交差点右折方法の違反(徐行義務、34条2項)と、豪雨で視界が悪いにもかかわらず注意を怠った安全運転義務違反(70条)となっているようです。
要は豪雨で視界が悪いのであれば、その視界に応じて通行するのが道交法のみならず一般的注意義務なので、自分の違反や過失を行政のせいにするなと言われているわけです。
冒頭から引用している記事の著者の言い分って、どうも無理があるというか。
視認性が悪いならその状況に応じて通行する一般的注意義務があるわけで、それを道路構造のせいに持っていこうとしているけどそれは事故の直接的な責任ではなくて責任転嫁の主張になる。
福岡高裁の判例でも、自分自身の道路交通法違反なのに、市民の税金が原資の国家賠償請求に転嫁することは許されないとしているわけですが、まさにこれ、なんじゃないですかね。
事故自体は当事者間の不注意で起きたもので、道路構造については事故を防ぐために視認性が良くなるように改良すべきというのであればまだ話は分かる。
この場合、行政の責任を問うわけではなくて、当事者間で過失相殺した後に行政に対して提案とかお願いするような話なのでは??
事故の責任が道路構造にあるとするのは、責任転嫁の主張と思われても仕方がないこと。
判例が示すように、当事者間の不注意に対し市民・都民の税金で補填せよという訴えをしているのと同じですから。
それで納得する市民や都民がいるのか???
こういうのって極論に走るならば、例えば幹線国道(片側3車線)において、車が自転車を追い抜きするときに接触事故が起きたとします。
当然ですが車の過失になるわけですが、間違ってもこんな主張は通りませんよね。
だから国道を管理する国の責任もある。
事故自体の責任は車の不注意にある。
注意していれば避けることができた事故について、なぜ国民が等しく分担し賠償するのだろう?
同種の事故を防ぐには、自転車道を作ったほうがいいよね?というのは全く別次元の話になる。
責任の意味と範囲を混同しているとしか思えず。
行政訴訟ってなかなか勝てないと言われますし、原告勝訴率は10%以下というのが常識ですが、行政は事故件数などこういうところもデータを集める能力があるのでなかなか勝てないわけです。
同じ場所で事故がほぼ起きていないというデータを出されたとして、道路の瑕疵だと主張したところで説得力がないのはわかることかと。
逆にこの地点でどれくらいの事故数があるのか?というのはプレスリリースとか報道が無い限り一般人には開示されていない。
道路構造の危険性が事故の原因と考えて行政を訴えるにしても、具体的な瑕疵を立証しないといけないですが、単に見えづらいというだけでは主観にすぎませんし。
当事者が立証する、という裁判の原則がわかっていないように感じました。
あと気になるのは、道交法の制定に関わった国土交通省や警察庁の責任、取り締まりをする管轄署の責任という部分。
これ自体、そもそもどうやって立証するんだ?という問題もあるし、事故との因果関係をどうやって証明するつもりなのかもわかりませんが・・・
警察の取り締まりがどうのこうのについても、取り締まり件数のデータを挙げても意味が無い。
主観の域を超えないと思うのですが。
読んでいて思ったのですが、ちょっと感情論に走り過ぎ、なんじゃないですかね。
見えづらいということは何となく読んで理解しますが、では事故が起きたのは行政の責任と言えるほど危険な場所なのか?という根拠もないまま道路の責任を追及しようとしているようにしか見えなくて。
峠とかに行くと、ブラインドコーナーのように対向車の存在が見えない場所も普通にありますが、そういう場所で道路幅が狭い場合、見えていないことを前提に速度を落として安全性を確保しようとするのは一般的な注意義務。
調子乗って速度を落とさず進行して、対向車と接触したとしますよね。
こういうときに、カーブミラーがあれば事故が防げたのだからミラーを設置していない行政の責任だ!というのは単なる責任転嫁にしか思えないのですが。
事故自体の過失は、事故当事者間にあるので司法で解決する。
ミラーがあったほうがいいよね、というのは司法で決めることではなくて行政の仕事。
こういう考え方をする人もいるんだなぁ、というのはちょっと驚きましたが、ミラーがあったとしても事故が起こっていないと言い切れる根拠もないわけで裁判官が認めるはずも無い。
言い方を変えるならば、【仕組みや道路構造がしっかりしていたならばこの事故は起きていない】と立証しない限りは行政の過失とは言えないでしょうから、そもそも無理がある。
仕組みや道路構造がしっかりしても事故は起こる。
問題がごっちゃになっているからこういうトンデモ論に走るだけなのかと。
第三者の裁判官がみて、根拠があるなと思わせるだけの立証をしないと裁判って勝てませんから。
双方の主張と証拠のみが判決に関わる、という前提が分かっていないのかなと思いまして。
誰かの責任を認定することって、こんな感情論で決めていいのでしょうか。
大局を見れば
こういうので道路管理者や警察の過失だとして国家賠償請求が認められるとした場合、最終的な不利益は国民に降りかかります。
行政訴訟の場合、行政側も当然弁護士を立てるわけですが、勝っても負けても審級ごとに100万程度の報酬を払うような契約になっているようです。
つまりは訴訟乱発されたら、自治体の資産が減る。
さらに敗訴して賠償することになった場合には、さらに資産が減る。
行政の資産は税収なわけで、国民がなぜか負担させられているとも取れるし、自治体の資産が減った結果、行政サービスに充てるだけの予算も減る恐れがある。
道路を作ったり管理するのも予算の範囲でやるわけですし、道路標識や横断歩道等は警察の予算でやっている。
予算が減ると下手すりゃ道路整備事業が滞るリスクすらある。
だったらすぐに道路を改良しろと言っても、予算の範囲でしか動けませんし。
安易に行政の責任が認められるということは、下手すりゃ行政サービスの低下まで招く恐れがあるわけで、こういうのは司法ベースではなく提案とかお願いベースでやるべきことだと思う。
お金って無限にあるわけではないですよ。
最近、自転車道を作れ自転車道を作れと盛んにいう人たちがいますが、予算が無いと話にならない。
あと根本的なところとしては、事故の加害者と被害者の判例をみれば、行政の責任に触れていないのは当たり前のこと。
裁判の当事者ではない行政の責任を追及したところで、加害者にも被害者にも何らメリットが無い。
行政の責任を追及している判例をみたいのであれば、国賠訴訟の判例を探してきて読めばいい。
自らが民事の交通事故裁判の書籍を選んで読んでいるにもかかわらず、行政への責任追及をしていないことに不満を持つというのはちょっと理解しがたい。
行政の責任を追及している判例をみたいなら、道路の瑕疵について争った判例を探して読むのが当たり前。
佐藤さんと田中さんが裁判で争っているのに、双方が勅使河原さんの責任だと主張しても何ら意味がない。
勅使河原さんのせいだと考えるならば、双方が勅使河原さんを訴えればいいだけのこと。
佐藤さんと田中さんの裁判で、【勅使河原にも過失がある】なんて判決が出たら陰口叩いたもん勝ちみたいな世界になるわけですし。
また、佐藤さんも田中さんも勅使河原さんの責任を主張していないのに、裁判官が勝手に勅使河原さんの責任を追及することは違法だし大問題になる。
そりゃビックリしますよね。
佐藤さんと田中さんが裁判をしていたのに、なぜか判決では勅使河原さんの過失だとする判決が出たら。
おいおい、反論の機会も与えられていないし、いったい何の件ですか?という話になる。
勅使河原さんもお茶を噴き出すしかないですよ。
それと同じで、行政の責任を問うならば行政自体を訴えて、適切な反論の機会が与えられないといけない。
知らぬ間に行政の責任だとする判決が出て、行政もビックリしますよ。
いやいや、反論する機会すらないのに、勝手にうちのせいにされても・・・と。
これは最低限の訴訟ルールなので、責任を問うならば直接行政を訴えるしかないし、行政側にも反論の機会が与えられなければならない。
こういう基本的な裁判の概念が欠落しているように思えたのですが、今後何らかの機会に本人訴訟をする人がコレを見たら大きな誤解を生みそうなのであえて書きました。
佐藤さんと田中さんが裁判で争っているときに、行政の過失を認める判決なんて出せませんし、訴訟に無関係の第三者の過失を主張したところで意味がない。
仮に行政を訴えたとしても、見えづらいという主観だけで責任を負わせることは出来ませんので。
あと、対立関係にある原告と被告なわけですので、そこに行政を巻き込んだ裁判って法律上無理なわけで、別々に訴訟を提起するしかないですが、どの弁護士も無理というような話だと思うんですけどね・・・
無意味な主張をするとむ過失割合でも不利になりかねませんし、今後裁判をすることがあるとしたら覚えておいたほうがいいのかなと思いました。
何を言いたいのかというと
別にこの方を非難したいというわけではなくて、訴訟システムをあまり分かっていないようなので話がぶっ飛んでいるというだけのことかと思うのですが。
何を言いたいかというと、万が一事故を起こした・事故に遭った際には、自らが立証しないとおかしな判決が出ることは多々あります。
判決が出た後に、
酷いです!!
こんなことを言っても、そもそも民事訴訟の大原則として、当事者が立証しないといけない。
当事者が主張していないことについては、裁判官が勝手に認定するのも違法なので、主張したいことがあれば裁判の当事者が、裁判官に理解してもらえるように画像などを整えて立証するしかないわけです。
これが裁判の大原則、弁論主義。
主張の仕方を間違えたり、裁判官にとって合理性が無いと思う主張をしたり、裁判官から見て意味が分かりづらい証拠を出せば不利になりますが、要は全て自己責任で立証していくしかないというのが裁判です。
また、事故当事者間での争いなのに、双方が主張していない行政の責任を判決文に盛り込むことも出来ませんし、かりにどちらかが行政の責任だと主張したとしても、行政が裁判当事者になっていない以上はあまり意味を持たない。
過失がない、という主張であれば、相応の証拠を提出して認めてもらうしかないわけです。
ちょっと話が変わりますが、東名でのあおり運転事故の刑事訴訟。
あれ、一審では危険運転致死罪で有罪判決が出ていますが、東京高裁は一審に差戻し判決を出しました。
理由は、一審での手続きが違法だということです。
一審では公判前手続きで、裁判官が【危険運転致死罪は成立しない】との見解を述べていたので、被告人はそれに応じた反論しかしていなかった。
けど不意打ち判決で、危険運転致死罪で有罪とした。
なので適切な主張反論機会が与えられなかったことが違法という判断です。
危険運転致死罪は成立しないという見解を裁判官が述べること自体に問題がありますが、それを受けて被告人も過失運転致死罪についてしか反論していなかったわけです。
それなのに判決は危険運転致死罪となると、反論する機会を失わせている。
東京高裁も、危険運転致死罪の成立自体は認めています。
これは刑事事件なので若干ニュアンスは変わりますが、民事であっても、双方が主張していないことを勝手に裁判官が判決してはいけないという原則がある。
なので双方が主張していない行政の責任がどうのこうのなんて判決は出せませんし、原告もしくは被告が行政への責任を追及したとしても、裁判当事者に入っていない人のことを主張すること自体に何ら意味がない。
・裁判官が職権で見に行くことはあり得ない以上、裁判官に分かりやすく証拠を作成する必要がある
・裁判当事者ではない行政の責任を追及しても、裁判上では何ら意味がない
・国家賠償請求訴訟は極めてハードルが高く、行政訴訟の原告勝訴率は10%未満(一部認容を含む)なので、絶対に勝てる自信がある案件以外はやめたほうがいい(絶対に勝てると思う案件でも勝てないことが多い)
・前方視野が十分確保されていない道路では、その道路の最高速度にかかわらず、視野に応じた速度で運転することが一般的注意義務なので、それを行政のせいにするには無理があり過ぎる
・道交法の義務規定違反が、そのまま過失となるわけではない。一般的に予見されることへの注意義務・回避義務違反が民法での過失となる
まあ、裁判って面倒な上に相当な労力を費やすので、話し合いで解決するのが一番です。
自転車と歩行者の事故の場合は、間に保険会社が入っていない場合は揉める要素があるのかもしれませんが・・・
自分自身行政訴訟をして思ったのですが、もし仮に、誰かが報酬をくれるとしたら、最低でも200万は貰いたいくらいの労力を費やしました。
ちなみに相手方の弁護士は、結果にかかわらずそれぞれ100万ちょっとの報酬を得る契約になっているっぽい。
つまりは1審、2審、最高裁とそれぞれに100万ちょっと。
私の訴訟で一番儲かったのは、相手方の弁護士なんですよね。
いったい誰の税金なんだか。
そういうこともあって、無駄に争うよりは話し合いの方をお勧めします。
裁判で行政を訴えることって、かなりハードルが高い上に絶対に勝てませんから。
最後に追記します。
他の記事でこのように記されていました。
全体的な印象として、以下の問題点が有った事を指摘します。
(具体例は次回以降の記事で書きます。)「人は間違いを犯さない」という非現実的な想定をしている。
事故原因を紛争当事者のみに求めている。何を置いてもまずはこれ。これが最大の問題点でしょう。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (1)『自転車事故過失相殺の分析 ―歩行者と自転車との事故・自転車同士の事故の裁判例』 交通事故の過失相殺を研究する弁護士の会がまとめた本で、 2009年に出版されています。 (このシリーズは初版第1刷に基づいて書いていきます。) 内容は、過去の...
これらについても、そもそも何について争っているかという前提が抜けているので誤認しているのではないかと思うのですが、事故が起こった以上は当事者間で解決するという民法の大前提が抜けていらっしゃるのではないかと感じました。
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
道路構造が第三者の権利や利益を侵害している、というのであればその立証をして行政を訴えるしかないわけで、そもそも民法ではなく国家賠償請求になる。
自転車と歩行者の事故であれば、そこで失った権利や利益は当事者間で相殺して補填するのがルール。
道路構造がどうのこうのというのは、また別の話です。
別途国賠訴訟を起こすしかないですが、行政訴訟は本当に勝てない裁判とも言われます。
裁判は弁論主義、当事者主義なので訴える側が行政の瑕疵を立証しないといけない。
瑕疵というのは通常有すべき安全性を欠いていた状態、つまりは欠陥や不具合のことなので、街路樹で見えづらいという程度では瑕疵というのは無理がある。
その上、公務員の故意または過失を立証しないといけない。
裁判は原告がまず相手方の不法行為や瑕疵を立証し、それに対して相手方が反論する。
裁判官は当事者の主張と証拠のみを判決の基礎とするわけですから、不可能な事を求めていらっしゃるようにしか見えない。
問題点というよりも、求めていらっしゃることが裁判になじまないことなだけなのかなと思うのですが。
行政の責任だとするなら行政しか訴えることは出来ないと思うのですが、いったいどういう理屈で行政の責任を問うのかさっぱり分かりません。
それは司法で解決すべき事柄ではない、と思うのです。
自分自身で行政訴訟をしてみてよーくわかったことがあるのですが、行政訴訟は勝率10%以下というのが定説で絶対に勝てないとも言われたりします。
これは行政のほうが立場的に民間人よりも信頼性が・・・という要素もあるのかなと当初は思っていたのですが、結局は行政内部で公開されていないデータを証拠として提出できるし、一般的に公開されていないような通達なども調べることができるなど、情報量がまるで違うという点もあると思ってます。
判例については民間の判例検索サイト等を契約すればかなり調べることが出来ますが、通達類などは調べる方法がありません。
唯一、国会図書館とかに行けば通達集というとんでもない量の加除式書籍もあるのですが。
【見えづらいから危険で道路構造の瑕疵がある】という主観に対し、行政側はその場所での過去の事故数など客観的指標になる数字の根拠を以って反論できる。
例えば過去の事故数として、同じ横断歩道で事故があったのは10年間で1件だけですよ、という数字が出てきたとしたら、客観的危険性があるとは通常見なされない。
主観と客観がぶつかれば、どっちが説得力があるかはお察しのこと。
主観を客観的な指標に置き換えられないと裁判って勝てるわけもないので、行政の責任を追及するというのは口で言うのは簡単だけど実際には相当難しい、というよりもこの件では無理でしょう。
なので明確な事故と道路構造の瑕疵の因果関係が無い限り、道路構造を裁判で問うという手段が適切ではない。
ちょっと安易だなと思う面があったのであえて書きましたが、とりあえず事故に遭ったときは自ら証拠収集して裁判所に提出しないと、有利な判決は導けないということです。
裁判官は勝手に証拠収集できない上に、現場検証のようなことは必要があると裁判官が認めない限りは行われませんし、この事案だけで見ると特別複雑な要素があるとは思えないので却下されるのがオチ。
行政の責任を追及する、って口に出すのは簡単だけど実際は相当難しいことを分かっているのか・・・
ぶっちゃけて言いますと
私はまともな裁判官に当たったので被害はありませんでしたが、近年、地裁ではそれなりにトンデモ判決が出ていると言われます。
あと裁判官は判決よりも和解を好みます。
好むという時点でおかしいのですが、判決文を書くよりも仕事量が減るので、ある意味では人間らしいですよねw
交通事故関係の民事訴訟って、口頭弁論が平均2.1回だというのを見ました。
まあ、そんなもんなのかなと思うのですが、地裁だと裁判官は一人です。
私の場合は行政事件だったので地裁から合議制(3人)な上に、地裁での口頭弁論の回数は8回。
8回もやってやっと結審しましたが、あれが2回だったら十分な主張が出来るとは思えず。
訴訟指揮権は裁判官にあるので、裁判官がもう十分と思えば結審する、らしいです。
あと、長引くと裁判官が異動でどっかに行ってしまいますw
私も地裁のときは、裁判長は不変でしたが左右のオニーサンたちは2回変更されました。
書記官もどこかに行ってしまいました。
訴訟は、当事者に立証責任があるので、自分に有利な判決を望むのであれば相応の証拠を集めないといけません。
裁判官は提出された書面と証拠だけで判断します。
そういう法律ですので。
口頭弁論というのも、口頭というのは名ばかりで、実際には書面で提出する必要があります。
限られた口頭弁論の中で、きちんと主張すべきことを主張しないといけない。
交通事故関係だと、正直なところ裁判に期待せずに話し合いで解決したほうがいいですよ。
変な話、裁判官にも当たり外れはあると思うし、裁判は実質二審制です。
けどここはきちんと押さえておいた方がいいと思う。
・立証責任は当事者にあって、裁判官が事故現場に見に行くことはありません。
2011年頃からクロスバイクやロードバイクにはまった男子です。今乗っているのはLOOK765。
ひょんなことから訴訟を経験し(本人訴訟)、法律の勉強をする中で道路交通法にやたら詳しくなりました。なので自転車と関係がない道路交通法の解説もしています。なるべく判例や解説書などの見解を取り上げるようにしてます。
現在はちょっと体調不良につき、自転車はお休み中。本当は輪行が好きなのですが。ロードバイクのみならずツーリングバイクにも興味あり。
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