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大型車の死角。

すみません、大型車には全く詳しくないので的外れになるかもしれません。

大型車の死角

よく、大型車が左折するときには左側に死角があるというじゃないですか。
左折巻き込み系の事故は時々ありますが、こういうタイプの事故とか。

歩道から横断歩道に向かう歩行者や自転車を見逃すという事故。

で。
大型車には全く詳しくないので的外れなのかもしれないけど、前から不思議に感じることがありまして。

業務上過失致死傷の判例の中には、「助手席側に移動して確認すべき注意義務を怠った過失」として有罪にしている判例と、「助手席側に移動して確認すべき注意義務はなかった」として無罪にしている判例がある。

この差って何があるのか?
例えばこちら。

まず所論にかんがみ、本件大型貨物自動車の運転者に対し、助手席に移動することを要求することの当否につき検討するに、関係証拠を精査しても、右の移動が困難にしてこれを要求することが不当なものとは認め難く、この点につき当裁判所の検証調書にも明らかな如く、本件大型貨物自動車の運転席(中央)から左側(助手席側)のドアまでは約1.7mの距離が存するところ、ハンドルと運転座席との間隔が狭く、運転席と助手席との間にはフロアシフト式のチエンジレバー及びサイドブレーキレバーが突出しているので、運転者から坐つたままで助手席に移動することは必ずしも容易とはいえないが、中腰になれば右移動は比較的容易であることが認められる。したがつて、運転台の構造上運転席から助手席への移動がそれほど困難であるとは認められず、又、その移動に際し誤つて車を発進させる危険があるとも認め難い。尤も、被告人は当審において右の危険を指摘すると共に、かかる安全確認の方法を会社関係者より指示されたことはなかつた旨供述するのであるが、右結論を左右するに足りない。
してみれば、原判決が死角圏内の安全確認の方法として、「助手席に移動すること」を例示したことを以て不当ということはできない。もとより右は例示であつて、運転者がとるべき方法としては、その他にも運転席から下車して必要な安全確認をするとか(右は原審において訴因変更後検察官が主張するところである。)又は休憩中の交替運転手を助手として使用するなどして死角部分を除去する手段も存在する。尤も、助手席への移動や下車などの方法はいずれにせよ当該運転者にとつて運転席を離れる欠点があり、後続車の渋滞等をもたらす虞れがあることも所論指摘のとおりであるから、かかる方法で死角圏内の安全を確認する注意義務が存したかどうかは、なお具体的な関係状況に即してさらに検討すべきものである。

そこで、被告人に右の死角圏内の安全確認義務が存したかどうかを検討するに、原判示挙示の証拠によれば、原判示関係状況がいずれも十分に認められ、これら関係状況を前提とする限り、被告人が一時停止後再発進するに際して、自車の死角圏内にある左側の横断歩道上の安全を確認すべき業務上の注意義務が存したことはたやすく否定できないところである。

(中略)

しかし、原判示の如き方法で死角圏内の安全を確認することが当該運転者にとつて手間のかかることであり、交通渋滞をもたらす虞れも否定できないとしても、かかる難点は横断歩道上の歩行者等の安全確保のためにはやむをえないものであつて(これを除去するためには助手を置くことが望ましいことはいうまでもない。)かかる難点を理由としと運転者に不可能を強いるものということはできない。又、助手席に移動する等して安全を確認してみても発進までの間に新らたに死角圏内に進入する者がいれば、その者との関係で盲発進となることは所論指摘のとおりとしても、少くとも本件における前記関係状況においては、被告人が死角圏内の安全確認を行なうことによつて本件事故を防止することができたのであり、所論の如く右の安全確認後発進するまでの間に新たに死角圏内に進入する者がある場合ではない。もし右の如き状況であれば、それに応じた安全確認を更にすべきものである。いうまでもなく注意義務はそれぞれの関係状況に応じて生起するものであつて、所論の如き状況が考えられる場合がありうるからといつて、本件の場合における被告人の前記注意義務を否定すべき理由はない。

又所論は、本件の前記関係状況においても、被告人には原判示の如き死角圏内の安全までを確認すべき注意義務はなく、再発進に際しては運転席から肉眼及びバツクミラー等で視認可能な範囲内の安全を確認しながら低速進行すれば足りるものであり、被告人は右の限度でその注意義務を十分に尽したものであるというのである。

しかし、被告人に死角圏内の安全を確認する注意義務が存することはすでに説示したとおりである。のみならず、原審取調の証拠を仔細に検討するときは、被告人が所論主張の限度における注意義務を十分に尽したものとは認め難いので、所論はいずれにせよ採用するに由ないものである。(なお右の点につき、原審取調の証拠のうち司法巡査及び司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の死角実験に関する捜査報告書、実況見分調書二通及び原審の検証調書並びに原審証人に対する尋問調書によれば、被害者は本件横断歩道の南側歩道上で信号待ちをした上青信号に従い自転車に乗つたまま横断歩道に進入しようとし、若干手間取つたものの右横断歩道上を南方から北方にほぼ真直ぐに進行したものと認められ、同人が被告車と接触するまでの間、終始被告車のバツクミラー等の死角圏内だけを進行していたものとは認め難く、換言すれば、被告人が一時停止後発進して左折進行するに際し、左側バツクミラー等により自車の左側の横断歩道上の況状を確実に注視し続けていたものであれば、ほとんど瞬間的にせよ自転車に乗つた被害者の姿を発見できたものと認められるのであつて、被告人は右注視を怠り、同人を見落したものと認めるほかないのである。なお、これを否定し、終始バツクミラーで左側の安全を確認していた旨の被告人の供述等はたやすく措信できない。)

以上のとおりなので、原判決が、被告人に対して助手席に移動する等して自車の死角圏内を含めて四囲の安全を確認して発進すべき業務上の注意義務を課したことは相当であり、被告人がこれを怠つたことも関係証拠上明らかであつて、本件事故が被告人の右の注意義務の懈怠に基因するものであることは否定できないから、被告人に対し業務上過失傷害罪の成立を肯認せる原判決には法令適用の誤りは認められず、その他本件記録を精査し、当審における事実取調の結果を参酌しても、原判決には所論の如き誤りは見出せないので論旨は理由がない。

福岡高裁 昭和52年4月26日

交通渋滞を引き起こしてでも横断歩道の安全を確認すべき注意義務があるとして、助手席側に移動して確認、降車して確認などを挙げている。

けど一方、このような判例もある。

 なお,被告人車両は死角のある大型自動車であることから,その注意義務の程度も普通自動車に比して高度なものが要求されるとしても,交差点の直前で一旦停止して,助手席側に体を移動させるなどして確認すべき注意義務まで要求することは,信号機による交通整理がなされており,格別見通しを遮る物があったと認められるわけでもないといった状況であったことなどを考慮すれば運転者にとって酷であるといわざるを得ず,また,そのようにすれば被害者を発見できたことを適切に認められるような証拠もない

東京地裁 平成15年12月15日(差戻し後の一審)

この判例は、横断歩道と自転車横断帯がある場所の横断歩道を横断した自転車と左折車が衝突した事故。
結果は無罪です(業務上過失傷害)。

他にも昭和の判例で、確か東京高裁判決で助手席側に移動して確認する義務があったか?みたいなのを見つけていたのですが、なぜか見つからなくなってしまい。

大型車には詳しくないので、個別の状況次第なのかもしれないけど、昭和の時代に「渋滞よりも安全が優先」としている点はちょっと驚き。

しかし、原判示の如き方法で死角圏内の安全を確認することが当該運転者にとつて手間のかかることであり、交通渋滞をもたらす虞れも否定できないとしても、かかる難点は横断歩道上の歩行者等の安全確保のためにはやむをえないものであつて(これを除去するためには助手を置くことが望ましいことはいうまでもない。)かかる難点を理由としと運転者に不可能を強いるものということはできない。

福岡高裁 昭和52年4月26日

最高裁で判断が下されているのか、それとも事故のそれぞれの状況の違いなのか、それとも検察官の立証能力の問題なのかはよくわかりません。
ぶっちゃけた話、検察官が無能なのでは?と思う判例ってたまに見かけるのね。

死角問題

とは言うものの、自転車乗りがわざわざ大型車の死角に入ることは危険なのは言うまでもなく。
けど今の時代、カメラとモニター使えば死角なんていくらでもコントロール出来るような気もする。

もう何年も前ですが、狭い左側から大型車の追い抜きをしてお亡くなりになったロード乗りの方がいましたが、約1mの隙間から、時速35キロで走行する大型車を時速36キロで追い抜きしたという事故。
死亡事故は悲しいものとは言え、時速35キロで通行する大型車に対して1mの隙間から追い抜きする自転車がいることを予見する注意義務はさすがに無理があると思う。

何年か前の話ですが、ロードバイクが左から追い抜きしたことにより接触事故が起こり、先行していた大型車が無罪になった判決がありました。 確か読...

話を戻しますが、助手席側に移動もしくは降りて確認すべき注意義務があったとする判例と、助手席側に移動すべき注意義務を否定する判例。
大型車には詳しくないのでわからないけど、どのように解釈すべきなんでしょう?